徳谷柿次郎のクラフトインターネット日記

コミュニケーションOSの違いが生む地獄

年代によってコミュニケーションの性質が異なるのは、社会的背景と環境の影響を人間が色濃く受けるからだろう。特に会社の中で「1から3を言えばわかるだろう」 VS 「1から10まで言われないとわからない」の対立は溝が深い。手に負えないレベルで積んでるコミュニケーションOSが違うことがある。

なにも背中を見て学べとは言わないものの、慎重な前置きを熟慮した言葉のフィードバックは教える側のコストがとても高くなってきている。我々はその現象とどう向き合えばいいのか? 宮藤官九郎のドラマ『不適切にも程がある』では昭和と令和の対比構造をSF的に処理しながら、働き方に関する表現が目立つ。

インターネット普及、SNSの発展と共に芽生えた”新たな恐れ”みたいなものが、傷つけること、傷つくことに起因する感情を増幅させている。とてつもなく目についてしまう。スマホ脳なんて言葉もあるが、脳をハックした中毒性に意識を奪われてしまうのは、自分だって例外ではない。

その上で誰かが怒る役割を引き受けなければならない。意見をしっかり伝える必要もある。仕事でも生活でも酒場でも、よくないと思ったことがあればフィードバックをしなければ、いつまでも失礼無礼は続く。なぜなら怒られるまでその行為が、相手の気持ちを踏みにじるものであるかどうかわからないからである。

都市部だけの問題ではない。いわゆる地方都市でも、怒られ慣れないまま社会人になってしまった20代の振る舞いが無自覚の牙を剥いている。話を聞けば聞くほどに「やばいな」と思う。その背景には教育コストを誰も差し出せていないことがある。

優しい大人たちに囲まれてぬるい感性と倫理観のまま放置マネジメントでそれっぽく働く。大手企業では許されないようなことが跋扈しているし、そこそこでやれてしまうローカルの弱さが際立つ。指摘のコストが高い。怖いと思われてしまったときの居心地の悪さも許容し難い。

私の本音はこうだ。

「世代も常識も関係ない。人間の価値観をすり合わせる行為、他者になにかをお願いすることの重さを舐めるんじゃない。能動的に動いて、感情の引き出しを増やして、進んで勝手に学べ」

では上司でもなんでもない他人である我々が、そのフィードバックを担うべきなのか? 怒れば怒るほどに損をする社会の中で? 仕事観を磨くことなく無惨にも放置された人間は、30代になっても社会で活躍することができるのだろうか。お金を稼ぐことができるのか。そもそも倫理観の水準が、大人の沈黙によってどんどん下がっていくのだろうか。

ムカつくことはムカつくものだ。言葉を飲んで、感情を心の奥底にしまい込んで、ため息をつく。こっちにはこっちで尊厳を守るため、心地よく暮らして生きていくための権利がある。

怒られることに免疫力がない人間は、感情が固くなってしまう。言い訳が強くなる。不貞腐れた表情がこぼれる。自分を守るために返す刀で攻撃を仕掛けてくる。そんなやつとは関わり合いを断ったほうがいいのだ。こんなシンプルなことはない。SNSの中がこのような生態系で循環していて、無責任なユーザーのアテンション次第で報酬が発生するなんて地獄の縮図といっていいだろう。

心の免震構造をしなやかにするための道筋は、他者への許容と見守る姿勢の中で生産されるフィードバックの総量がものをいう。いま社会から失われつつあるシステムだ。他者と関わることのリスクが高まれば、雇用するメリットなんてほとんどない。大人にも、法人にも、地獄に付き合わない選択肢がある。

幸い自分はまだ「雇用は法人格に変化をもたらすから、必要な一手である。おもしろいし」と思っていられているが、前述のコミュニケーションOSの違うことで生まれる地獄が広がれば、容易に手を引くだろう。めんどくさいことを請け負う役割の疲労も溜まってきている。解決の一手は3歳からの教育しかないんだろうなぁ。

性根が腐ってしまったらどうしようもない。ぬるま湯に浸かり続けるとどんな植物でも根は腐る。適度に厳しい環境と許容とフィードバックが保証されたような土壌微生物叢的な機能が人間にも必要。ぜんぶつながっているからこそ、人間と自然の比喩表現がいま自分のなかで一番しっくりくる。

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