ここ一年ぐらいモードが変わってからずっと考えてる。より遠くの多くの人たちと重なり繋がり続けることへの果てなさについて。
ミツバチ的に文化の花粉を運び続ける編集者の役割なのだから、むしろ誉れなことでもある。しかし、果てない。途方もなく、きりがないともいえる。
「人生のすべては再会に尽きるでしょ!!」
ビールや焼酎、ワインを飲み干しながらそう叫んだことがある。実際、距離は関係なく再会できる関係性をどれだけ維持できるのかは想像に難しく、気づいたら途絶えてしまうものだ。そういう性質を人間は持っているし、「人生の色気はその儚さから生まれるんじゃないか?」と昭和歌謡曲を聴くたびに思う。
儚さを尊いことだと頭で理解しながらも、幾度も遠い再会を願うことに果てのなさを覚えてしまうのはなぜだろう。
それは繋がりすぎた弊害なのかもしれない。
それはいつでも再会できる利便性の弊害かもしれない。
純粋な人間の情動をテクノロジーやプラットフォームが均質に冷たい質感のなにかで覆い尽くす。夜眠り、朝起きて、車のエンジンをかけて、外に飛び出るその瞬間までは気づかない。往路はいつだって好奇心が背中を押してくれる。ただ、家に戻ってきてから、次の再会がこちらを覗き込むときに「あれ?」となってしまうのだ。
しんしんと雪が降り積もる山奥で、耳が聞こえなくなったかのような静けさに包まれて、相反する己の感情の声が聞こえてくる。いや、錯覚なのかもしれない。疲れやすくなったからなのかもしれない。人が一人で生きていくことができない事実の中には、不安と寂しさがほとんどを占めているんじゃないかと思う。
すべてを知ることは不可能。遠くのすべてと繋がることもまた欲深い。それでも、自らが切り開いた道筋にはより遠くの多くの誰かが待っている。きっといいことがおきるはずだ。必ずおいしいものを食べてやる。誰も知らない現象を見つけだして、言葉をつけて、大きな旗を振ってやる。そんな祈りだけが重い身体を動かしてくれる。
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