徳谷柿次郎のクラフトインターネット日記

わらじを履きすぎる男たちとの深酒

12月30日、新宿の部屋で起きた。前日、深夜3時まで飲み続けた中で生まれた抽象と具体の雑談は「これは東京でしかやれないな」と噛み締めたくなるものだった。

ただ、会話のラリー回数と共にアルコールを喉に流し込むことが比例しているため、ほとんど覚えていない。最後の一杯で思考停止のカルーアミルクを頼んだことが、ぶっ壊れたパソコンのスクリーンセーバーみたいに焼きついている。

重い身体を起こす。湯船に浸かる。身支度をするものの脳は冴えない。40歳を過ぎてから、アルコールの分解速度が著しく遅くなっているのがよくわかる。不調をベースに生きていたら、それもまた日常になるんだろうけれど、こちとら健康のラインを掴もうと豪雪地帯の山奥に引っ込んでいる。不調に対して敏感肌になってしまった。深夜1時までは乗り越えられるが、深夜3時を超えるともう半日を酒の悪魔に捧げたようなものだ。

犠牲者がもうひとりいる。友人のヒラクくん。会うたびに「毎度のことながらボロボロだなぁ」と感じてしまうので、働く古民家のように彼のことを見ているのかもしれない。発酵デザイナーとしての活躍は株価で言ったら右肩上がり。作家として本を何冊も書いているし、経営者として下北沢「発酵デパートメント」の切り盛りも間近で感じてきた。

一体何足のわらじを履くのだろうか。ただでさえ足腰の強い生き方をしているのに、軸足の「発酵」が時代を捉えすぎているのだろう。どのわらじも機能してしまう。その素晴らしさとむずかしさは、同時代を生きる者として感じ入ってしまうことがある。

もっと経済と文化が垂直線上に伸びていれば、何足もわらじを履く必要なんてない。生き残るために履いて、もがき苦しむ。そのプロセスから生まれる経験値の獲得量は、変化の激しい時代に必要なものとなる。とにかくレベルをあげて、貯まったポイントは各パラメーターに振り分けることができるからだ。

ヒラクくんは、日本に元々備わっている「発酵文化」を解釈して再定義し、経済市場ごと文化として押し上げるために必要なことを全部やるマンなのかもしれない。期待も背負っているし、その道筋を見出して努力するための方法も理解している。だから、やってしまう。だから、3つのわらじを履きこなせてしまう。きっと時代の狭間で突如現れる文化創造者はそういった性質を持っているんだろうなぁ。

いま仲の良い顔ぶれを思い出したら、みんなフリーキーなプレイヤーばかりだ。なにをもって普通とするのか。なにをもって変人とするのか。選択と集中ができる環境を持てたらベストだけれど、きっとおれたちの周縁には”好きの多角化”を仕事にするやつらばかりだと思う。理屈じゃない。好きな仕事をやりまくる。うまくいった事業だけ伸ばしていく。それでいいんだと思う。

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