最近、人生の調子が悪いなと思う。BPMが狂っている。
会社の体制変化はトリガーにすぎず、いま両手で抱えている責任に対して、社会の大きな揺れがどんどん押し寄せてくる感覚。どうしても握りしめた手元にリソースが集中し、意識が散漫になってしまう。
本気で数字に向き合ってみた。絶望のラインを血眼で探してみた。必要な決断を繰り返してきた。できるかぎりを手放してみた。それでもまだ足りない。手放す量が足りない。
本来、リソースは有限である。ここに少しの無理を日々積み重ねて、凡人なりの闘い方を模索してきた10年だったが、この無理をするカードが切れなくなったのはでかい。なぜなら、1歳半の娘がかわいすぎてかわいすぎて、できるだけ自宅に帰りたいし、一緒に時間を過ごしたいからだ。
娘がかわいいのに調子が悪いとは何事なのか?
人生の大半を仕事(=遊びと好奇心)に全振りしてきたわけだが、パソコンに向かって働く時間がより激減しているのだから、そりゃままならなくもなる。田舎暮らしは用事が多くて、子育て以外にも時間を割くことが多い。ああ、そうだ。畑もそろそろやらねばらない。
家族が増えた。社員の数を減らした。田舎暮らしの用事は待ったなし。飲み会の回数は激減。地方出張はこれまで通り多めではある。なんとなくプラマイゼロな感覚もあるが、実態は真逆の方向に走ってしまっている。
もうひとつの大きな変化は出版事業と本の行商、そして本屋オープンの準備だ。まず、ひとりでやれるわけがない。新しいチームで体制づくりを頑張っているが、今後の表現活動における土台になるクラシックな新規事業でもあるため、クオリティの担保は責務だ。
問題は手放すと始めるを同軸でやってしまっていること。
「スナック夜風」の閉店作業をした後、シームレスに本屋の準備をしていたら感情がバグってしまいそうだった。しかも元大家のおじさんがいつもの冗談とノリで「コインランドリーやってくれや」と言われて、「できるわけないやろが」と育ちの悪い大阪DNAが飛び出してしまった。
さらに新規案件の相談事項と人生の迷い人対応がとても多い。どちらも大事な役割ではあると理解しているが、心に余裕がないため気持ちがまったく追いつかない。我ここにあらず。どちらも経営者として振る舞うシチュエーションが多いため、ほぼ一人で立ち向かうわけだ。曖昧な保留時間を長めに持ちながら、少し余裕があるときに対応する。
しかし、以前のように「これできっとなにかがよくなる!」と信じられていない自分がいる。それでも祈りを捧げて、言葉を駆使する。感情を巡らせる。鏡を見たら、ままならない自分が「大丈夫か?」と声をかけてくるような塩梅だ。
これらの揺れは私自身から発生しているとも言えるが、大元は時代の大きな変化だ。明治初期も日本人は新たな価値観の到来に強く戸惑って、ままならない日々を過ごしていたらしい。伝統や宗教観、当たり前だと思っていた常識を手放して、新しい日本の激流の渦にのみこまれていく。令和もかなり似たようなシチュエーションになってきているのだろう。
地震を予知するネズミのように、私も経営者として大きく走り出してしまった。こっちのほうが安全なんじゃないか、と。実際、大丈夫であろう精神性まで近づけた感覚はある。あとは己を信じられるかどうかだ。経営者、編集者、そして作家としてどの仮面を選び取って演じきるのか。この定まらなさこそ、不安の象徴なのかもしれない。
「もう翻弄されるのはやめよう。未来のために立ち止まろう」
今日、急にこんな感情が生まれた。カレンダーを見れば立ち止まれる状況ではないが、他人の感情に翻弄されるのをやめていきたいなと思えた。売上のために飛びつくことも控えていきたい。もうリソースがないのだから。これまでの仕事からあたらしい仕事へのトランジションは、きっと暇になることが重要なんだと思う。
前言を撤回し続けて、やれることはやってみて、納得のいかない内容だったら誇らしく保留していきたい。残り約3カ月で会社10期目が終わる。死に物狂いの黒字ギリギリ着地を目指したかったが、ちょっともうこんな世界ではやってられまへん。一時的な数字の安心よりも、長期的な楽しみを新たに見出していかなければならない。
大きな不安が渦となった台風がきてるのに、外に飛び出て果実を求めているようなもんだ。洞窟のなかでじっとしていろ、おれ!!
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