社会の空気にのまれてやられるよりも、自らが望んだ手触りしかない世界でやりまくったほうが絶対によい。
こんなことを先輩編集者とのやりとりで思いついたからだ。8年ぐらい前から「やってこ!」と叫んできた。最近は「やる」って感じだ。一人の逡巡だけでは一歩目が踏み出せない……これは他者との摩擦の中で生まれた喜怒哀楽の感情が糧になることの裏返しでもあると思う。
なぜなら、人は一人では生きていけない。摩擦ある人間社会の共生たる由縁は、弱さと弱さを持ち寄って、傷つきながら歩んできた歴史のバックボーンがきっとあるはずなのだ。令和において荒唐無稽かもしれないが、人間は本来優しい生き物ではなく、生存戦略としてホモ・サピエンスとしてのコミュニティに繋がっているだけに過ぎない。
集まって、群れる理由。それは死なないためでもある。しかし、現代は集まって群れることに対するネガティブな価値観をSNSで交換し、さも真実であるかのように人々が信じてしまっている。常に人間が放つ言説は幻想である。その言説を信じる割合が一定数を超えたときにだけ真実のように振る舞う性質がある気がしてならない。
風邪を引いたらお風呂に入るなもそう。賢い大学に入って、役場に勤めるのが一番であるのもそう。東京を信じ切っても、AIを信じ切っても、田舎の自然暮らしを信じ切っても、それはもう幻想の中で自分にとっての「利」を得られるかどうかでしかないのだ。
すべては「利」とともに転がっていく。常に価値観は流転する。国家の仕組みもほとんどは税収の有無によって判断される。利益が既得権益構造を生んでしまう。あたかも最先端の人類ヅラしていたとしても、根本的には人間はそういうものなのである。
という出発点に立って、物事を判断して、限りある人生の決断を己の手におさめなければ、死に際に後悔してしまうだろう。それだけは、絶対にイヤだ。社会と倫理にしっかり触れて、面倒事をたくさん背負いながら、税と雇用に向き合って、それでも好きなことをやる。やればやるほどに忙しくなる。小さなことで悩んでいられなくなる。
大きな主語の社会問題に向き合いすぎなくとも、あなたの世界は小さな村から始まっているかもしれない。もっと自分の小さな村を見つめ直そう。それは家族かもしれないし、仲のいい友達3人組かもしれない。回覧板をまわしたときの小さな気配りの会話が、お隣さんの幸せに寄与するかもしれない。
余計で過剰な何かが、その小さな幸せの一歩のコミュニケーションに繋がることを信じたのならば、情報を生産するのではなく、お裾分けのできる野菜や果物を育てることが救いになるかもしれない。作家/編集者にとっては本を作って、売り届けるプロセスに全部が宿っているともいえる。
冒頭の言葉に戻ろう。社会の空気にのまれて自信をなくなって、自分ではない他者に弱さの牙を剥くぐらいエネルギーがあるなら、もっと限界を超えるぐらいの挑戦に脳のリソースを割こう。手を動かそう。足を使って移動しよう。とっくのとうに、一歩も踏み出さない指先だけのSNSやメッセンジャーで感情を使い切ってる世界ではないのだ。
もっとおまえだけの人生に向き合って、生きて生きて生きて、しんどくなったら誠実に弱さをさらけだして、まわりに刺激を与えたほうがいいんじゃないか? 何者にもなる覚悟がないくせに、上澄みの表現欲求だけでいっちょ噛みするぐらいなら、もっとリスクと責任を負って社会に拳をつきあげるような情動を発露すればいいだけなのである。
そうすれば、もっと、もっと、深く眠れるようになる。一歩間違えて深く傷ついても、おまえの側には一緒にお酒を飲んでくれる仲間がいる。そこだけを信じろ。おまえを信じる、おれを信じろ。中途半端な自己愛をひた隠しにして、だれにも怒られず、どこにもいられず、フェイクの仮面をかぶって近寄ってくるんじゃない。その景色は、果てしなくつまらないものだ。
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