真面目は大事だけれど、真面目だけで世の中を渡り歩くのは困難だ。なぜなら、みんなおもしろいなにかを求めている。つまらないより、おもしろいほうがいい。そして真面目はつまらない方向にエネルギーがどんどん働くようにできている。
そもそも真面目となんなのか? 規範やルールが相当量が共有されている状態で、その範疇の中で生きて働くことを指す。少なくとも私はそう捉えている。しかし、この規範やルールは時代とともに変わっていくし、新しい空気でガラッと変わるのだ。これまで信じていた真面目は明日から途端に価値を失う……そんなリスクを背負ってよく生きていられるなと思う。
ちなみに私は根が真面目寄りだ。素直に物事と向き合う性質があるし、後天的に世の中を仕組みを疑う目も持っている。利己的であり利他的でもある。つまりこのアンバランスさの正体は、ちょっとした狂気が原動力となっていて、規範やルールをしっかり理解した上でどう遊んではみ出るかがポイントなんじゃないかと思う。
はみ出るための執着、時にはあっけなくはみ出る軽やかさ。このあたりが真面目の総量が高い人から見ると狂気に映るそうだ。
ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』では、狂気は「社会が正常とみなす基準から外れたもの」として隔離・排除されてきたとされています。現代社会では「効率性」「生産性」「同調圧力」が“正常”として強く働いていて、その規範に過剰に適応しすぎること自体が、ある種の「狂気」とみなされうる。
こうなってくると社会の正常とはなにか?の問いが生まれる。片道1時間以上をかけて満員電車のすし詰め状態になって、週5日も通勤する環境はどう考えても異常である。だが、それが正常とみなされているが、こっちからしたら狂気そのものだ。
いまや自分の車で誰とも接触せず、ストレスを抱えずに通勤している状態こそ正常だなと思える。長野に移住した理由のひとつに満員電車の通勤問題が大きく存在していたからだ。「仕方ない」を積み上げて、そこに抵抗しなければ、社会の正常という嘘っぱちの風呂敷に包まれて飼い慣らされてしまう。なんて怖いことなんだろう。
この対立構造は見方によって入れ替わる。では、この前提をもって上手に狂う方法はあるのか。自分なりに考えた結果、社会全体の空気と流れをくまなく観察し、針の隙間を通すような市場を見出して、そこに向かって”過剰にやり続ける”ことが第一歩なんだと思う。
例えば、ブログの文章を書きたいテーマに合わせて月に10本書くよりも、100本書いたほうが狂気的だ。週に1回飲みに行くよりも、週7回飲みに行ったほうが酒狂いだと思われる。海外旅行を年1回よりも、年12回の方がマイルは貯まる。
この過剰さがエピソードとなって、こなした質量から見えてくる情報の差異、世の中の捉え方が武器となるのではないか。そのルーティンを1年よりも、10年。そこからさらに時間をかければかけるほどに専門性と狂気が宿るはずだ。
私はいま月に4本以上の出版イベント企画、年間通したフェスやマーケットの出店を混ぜながら、過剰に動いている。これも本を売り歩くためだし、単純におもしろいと思えてるから。テトリスみたいに予定を埋めて、カレンダーを眺めるたびに「マジか。なんだこのスケジュールは」と嘆くことはあっても諦めることはしない。目の前のイベントをひとつひとつやりきればいいだけだ。
逆に朝から夕方まで、変化のないルーティンの生活を繰り返すと私の脳みそはカーリングみたいにツルツルになってしまう。そこを避ける。頑張って抗う。ほとんどの人間は自分にセーブをかけて、ブレーキばかりを踏んで、そこそこの選択と自分ばかりの時間を過ごしてしまうのは正常なのかもしれない。
だが、そこをはみ出なければ、お金を稼ぐ能力は身につかないし、純粋な修練の時間は朝から夕方まででは絶対的に足りないのである。キングコング西野がよく口にする1万時間費やせなんて話ではない。
ただ狂えばいい。過剰にやればいい。そこまで夢中になれる題材を見つけやすくなればいい。やりたいことがないとか、仕組みの中で生きてる方が楽だなんてもう正常の奴隷でしかないと思う。ただでさえ世の中はとっくのとうに狂ってるんだから。狂う練習をいまのうちにしておかないと、本当の狂気に殺されて何もできなくってしまうぞ!
と、うちの犬が言ってました。
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