かっこいいとか美意識とか。いろんな人が口にする。根っこにはリベラルアーツだとか教養だとか、売れ筋の本の影響は多いにあるだろうなと思う。もちろんかっこいいのは大事。美しいと思う感性はもっと大事なのかもしれない。
だが一方でこの2つの言葉を実践するコストはとても高い。経済的にも文化的にも、だ。憧れとしての「かっこいい」は誰しもが携えるものだろうが、本当にかっこいい状態になるまでの道のりは長い。マラソンよりも余裕で長いんじゃないだろうか。
というのも私自身がその当事者であるからだ。いまもその道中である自覚があるんだけれど、大阪で生まれ育ったせいか、シンプルなかっこいいにはどうあがいてもたどり着けない感覚がある。
かっこいいよりも、おもしろいが優位。おもしろくて、かっこいいが理想。ちなみに美しいなんて感覚は大阪時代の自分には1ミリも宿っていなくて、関西弁の「けったいな」(変な、おかしな、奇妙な)気持ちとともに生きてきた。まずここが出発点であることは伝えておきたい。
しかし、この「かっこいい」だけで飯が食えることの難易度がとてつもなくあがっている気がしてならない。なんだろう。かっこいいが当たり前になってきてるのか。かっこいいのバリエーションが増えているのか。20年前と現代ではこのかっこいいの基準値も人によって捉えている実像も違ってきているんじゃないだろうか。
その背景にはお金をかけてかっこよくなるコストの高さが時代に合っていないと思える。若者がユニクロ、無印良品をどう着こなすのかもあれば、個性ある古着を選び取るのか。おしゃれの基準値は充分に底上げされていて、その中でいかに貨幣価値に依存しないセンスの発達もまた不景気とリンクしているはずで。3万円のシャツも、10万円のジャケットも、ブランド品のかっこいいのかっこいいはとてつもなく高い。
だからこその引き算が必要だ。引き算=ダサくするという意味合いではなく、かっこいいの呪いにとらわれないような姿勢を示し続ける価値が高まっていると思う。そこには親しみやすさもあるし、等身大の距離感が生まれる。この感覚に行き着いた理由としては、田舎での店舗立ち上げをやった経験に紐づいていて、あまりにもかっこいいオーラが出すぎていると「私のお店じゃないかも」と思わせてしまうからだ。由々しき事態である。かっこいいだけで飯が食えるのはある種の特権階級であり、選ばれし者の表現であり、それはもうキムタクみたいなものだ。
かっこいい人には賞味期限がある。死ぬまでかっこいい状態でいられるのは極一部どころか、世の中の表現者の1%もいないんじゃないだろうか。貧すれば鈍する。貧すればダサくなる。だったらダサいことすらも懐柔していかなければ、資本主義同様の果てしない競争に巻き込まれてしまう。こんな難しいことはない。人間なんてクソでいびつでどうしようもない存在である……この前提条件を共有できなければ長く人生を共に歩むことはできないと思ってるんだけど、みんなはどう思う??
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