あ
自分には思い込みから脱脚したいという強烈なエネルギーがある。カウンターの立ち位置だと思われても仕方ないが、「こうしなければいけない」をあたかも正義のようにぶつけてくる態度が嫌いなだけだと理解している。
会社をやっているとその連続だ。思い込みの会社像みたいなものがおしべなく植えつけられている。立派なもんだなと思う。こんなにも普遍的な共通認識を教育の中で与えられているのだから。その事象に対して毎日むかついているわけでもないが、そういうものなのだからこうした方がいいのではないだろうか?の眼差しを向けられる度に落胆している。
肩を落としているわけでもない。クヨクヨするわけでもない。こうしなきゃの気持ちに応える社長としての役割を動かすのは、また同じ価値観のこうしなきゃなのである。それなりの大人なのでやることはやる。
言い方を考えながら、向けられた感情を解析して、ひとつひとつ小さく切り分ける。視点を高めて、具体に落として、抽象度を上げて。意図的に言葉を行き来させて雲散霧消させるのが相談に対する適切な対応なんじゃないかと考えているのだが、これもまた社会の中のこうしなきゃな気がしてならない。
各々が好きにやればいい。本当はできるはずだ。おれも言いたくて言ってるんじゃない。親でもなんでもないし、社長ぶりたいわけでもない。つまらない悩みに時間を割いてるくらいなら、自らがやりたいことか投げられた機会の役割を気が狂うくらいおもしろくやりきればいいだけなのに……勝手に道は見えてくるし、過剰にのめりこめば良い意味で周りはどうでもよくなるもんだと思う。
ほとんどの人はそうなれないのかもしれない。そうだよね。それなりに楽しく生きていけたらいいのにね、と。その楽しさの源は、芸人でも作家でもミュージシャンでも、その過剰なまでの表現から生まれているコンテンツっちゅう作品が支えているんだよ。その役割を押しつけて消費しておいて、自分はぬるま湯のそこそこでこうしなきゃの防衛ラインを引いて他人事ヅラをしてるんだとしたら、おれはなんか許容できねぇよとずっと思ってる。ほとんど言わないけど根っこにその感情がある。
分け隔ているのは、不透明な先行きの中で誰かの過剰をすすりながら「こうしてほしい」の矛を持って、「こうしなきゃ」の盾を構えているその精神性なんじゃないか。現代人に与えられた平等の矛盾で生きていけるのはいつまでなんだろうか。おれはとっくのとうにその余裕は社会から失せていると思っている。そんな矛盾は捨てちまえよ。「こうしたい!」を叫んで全裸の態度を示せば、分け隔てるものは人間の皮膚一枚になる。
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