新年あけましておめでとうございます。
年末年始は毎年変わらずほぼ家。コロナ禍のときだけ京都で過ごしたり、札幌で過ごしたりしてみたけれど、雪がしんしんと降り積もる土地に住んでいたら、グッと衝動を堪えて家で過ごすエネルギーの溜めみたいなもんが割と重要かもなと思うようになってきた。
なにせ今回は生後二ヶ月の赤子を愛でる大仕事がある。赤子、黒ラブ、除雪の三重奏で日々を過ごしていたら、あっという間に一日が終わってしまう。幸福度で言えば相当高い状態といえるだろう。
これが一般的な家族の在り方なんだろうなと、普段は適当にしてしまう日本的な行事に向き合っていくうちに「なるほどな」となる。育った環境がちぐはぐだったために、年末年始にありがちな家族の正解を問われるのが正直言って苦痛だった。自分だけが感覚に欠けているような気持ちの悪い空気を浴びせられるようで、そんな居心地の悪さから避けるように無関心の皮が分厚くなっていた。
しかし、子どもを目の当たりにするとそうは言っていられない。欠けた習慣を補って、あるものとしなければならない。「ない」の一子相伝をしても仕方がないし、むしろ歴史にならった文化の再現はせっかくなら意味を理解した上で実行したくなる。例えば、お年玉をもらったことがないからお年玉をあげない。サンタを信じたことがないからサンタを演じないとか。そういった「ない」の連鎖を断ち切る気概を持ちたい。
結局、社会のマジョリティに起きる出来事は自分の判断ではなく、他社との対比から悲しい差異が生まれてしまう。幼少期から100回以上受けてきたものだ。あんな複雑な感情を我が子に背負わせたくはない。ただ純粋にそう思えるようになったのは父性の目覚めなんてキレイなものではなく、他者が無邪気に仕向けてくる「なんで持ってないの?」の攻撃から身を守ってほしいからに過ぎない。
残念ながら「ある」ものは「ない」ものの気持ちがわからない。なぜなら、経験したことがないからである。「ある」ことの体験と「ない」ことの体験……実はどちらも価値があると思えている一方で、自分の幼少期とは比べ物にならないほどに差異の物差しは複雑になっている側面を鑑みると「あるにこしたことがない派閥」に所属したい。
集団を前提とした評価社会は悲しいほどに残酷だ。根本的なシステムを変えないままに薄っぺらい多様性を訴えかけても片手落ちがすぎる。貧困家庭に育った大人はトラウマの棘が抜けきれず、小さな痛みや違和感を抱えたまま過去との折り合いをつけるのがうまくなっていくものだ。
少なくとも自分自身はそうだと考えるようにしていて、負の感情をプラスのエネルギーに変えてこれたのは数少ない武器だったように思う。このあたりの話は自著『おまえの俺をおしえてくれ』に自己受容と自己開示の遍歴を断片的に描いているので、まだ読んでいない人はぜひ正月ボケの頭に400P、30万文字を流し込んでみてほしい。
完全に脱線してしまったが、このようにどれだけ年があけても、どれだけ年を重ねても、悲観をロマン的に捉えて、情緒ある行動に置き換えていくのが本当に好きなんだなと我ながら思う。何も考えずに文章を書いたらこんなことばかりが頭によぎるし、ずっと同じようなことを日記に書いてるのはやはり悲観ロマンの癖なんだろうな。
なぜなら、いま自分に訪れた幸福な状態をそのまま受け止めて「スーパーハッピーフォーエバー!!」と伝えたらそれはもうそれまで。インターネットなんて必要がない。ブログなんて書く必要がない。インスタに子どもと犬の写真だけUPしてたら済む話だ。
いまある幸せと過去の苦しさを対比させることで1000文字、2000文字と文量を増やすことが可能となる。喜怒哀楽の感情は金太郎飴ではなく、どの状態であっても引いたカードはトランプのような序列があって然るべきだ。とりあえずいまのカードは、正月ムードを考慮して幸福のエースとしておきたい。
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