余は犬を飼い始めてから、驚くべきことに早起きの習慣を身につけてしまった。かつての我が家では、午前十時の目覚めこそが日常であったというのに、今や九時前後の散歩が日課となっている。まさに小学生の頃、学校を休まんとして早起きした記憶以来の快挙である。
人は、時として己の成長に驚くものだ。
標高七百メートルに位置する信濃の地は、四季の移ろいが殊の外に鮮やかである。その濃密なる季節の変化の中にも微細なグラデーションが存在し、犬の散歩という日常的な営みの中で、「こりゃええわい」という言葉が不意に漏れる。これぞ隠居の風情であろうか。
若かりし頃より、「ひとりごちる」という行為に憧れを抱いていた余にとって、年齢と共にその言葉が自然と口をつくようになったことは、ひとつの達成と言えるかもしれぬ。
わが愛犬コムは、現代の若者が使う言葉で言うところの「ギャル」のごとき性質を持ち合わせており、飼い主を上目遣いで見るよりも、地上に落ちている「食えそうなもの」の探求に余念がない。そのさまは、まるで深夜の銭湯で石鹸を探す酔っ払いの如く、這うようにして鼻をヒクヒクと動かすのである。
この時期、栗の実を見つけては貪るさまは、まるで月末の給料日前に牛丼屋に駆け込む社畜の姿を彷彿とさせる。消化できているはずもなかろうに、とにかく口に入りそうなものは全て平らげてしまう。その様は、江戸の食い倒れ大尽をも凌駕する豪胆さである。
うんちに関して言えば、これがまた驚くべき生産性を見せる。専用の袋でソフトボール大の塊を掴み取る所作は、まさに闇夜の忍者の如き静寂と機敏さを要する。本日などは、実に五度もの快便を見せてくれたのだ。
と思いきや―。昨日、他犬の残したそれを、まるで立ち食い蕎麦でもすするかの如く平らげてしまった記憶が蘇る。厳密に言えば、純粋な生産量は四度というところか。ここは潔く訂正せねばなるまい。
排泄の際の尻尾のさまと言ったら、これがまた見物である。普段はブンブンと左右に揺れる尾が、まるで明治の志士が決起を誓うかのごとく天を突くのだ。現代人が、スマートフォンを片手に緩慢なる大便をひねり出す姿とは大違いである。
そこには動物としての威厳、否、「けものみち」とでも呼ぶべき凛々しさが漂うのである。
最近、「パカーン」という奇妙な名を冠したコーヒースタンドの開業準備に追われ、散歩にかける時間が減っていたことは否めない。しかし、適度な運動量と満足感を与えれば、このように立派な排泄量で応えてくれるのだ。我が愛犬よ、汝の腸の働きに感服せざるを得ない。
余はここに記す。信濃の朝の空気と、愛犬との散歩は、現代を生きる人間に残された、最後の贅沢なのかもしれないと。
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