みんな言ってることがでかいなと常々思う。
SNSやYoutubeが注目を集めるコンテンツを膨大に拡張し続けてきた結果だと想像できるが、そんな情報ばかりに触れていると思い込みの社会がくそでかくなってしまう。
このくそでけぇ思い込みの社会を前提としたことばかり考え続けると、大半の人間は気が滅入ってしまうだろう。希望を失い、不満を撒き散らし、仮想的に石を投げる匿名アカウントの大量出現に繋がってるんじゃないだろうか。
身のまわりでもこの手の言説に感情を揺らされている人が目立つ。社会をより良くするエネルギーは大事だし、諦めてはいけない。小さなアクションの積み重ねが、ポジティブな課題のドミノ倒しを生むことも知っている。なぜなら、その手の課題に向き合ってきた人たちを10年近く取材してきているからだ。
だからこそ、しんどさが募る。輪郭のある現実的な社会課題も無数にあって、そのほとんどが解決されないまま、空虚で曖昧な政治議論に飲み込まれていることもまた肩が重くなる。だが、大人としてやるべきことはやらなきゃならない。そのやらなきゃならないの領域も難しさも際立ってくるので、くそでけぇ思い込みの社会からはどんどん距離を取っていきたいと思うようになった。
まずは最小単位の「集落」から社会を見つめたい。軸足の小さな点。ここを足裏で感じて掴むために10年の取材があったのかもしれないな、と刈り取られた田んぼをボーっと眺めながら考えていた。
地元大阪を背水の陣で飛び立ち、複雑な家族の問題を放置したまま、背負うべき名前を変えて、長野に何かを求めて7年が経った。
アイデンティティの喪失と回復が人生のテーマなのだが、ようやくその欠けたピースらしきものが集まってきたように思える。手元に確かな信じられるものがある。手を握りしめたら体温をもって熱くなれるもの。
長期契約で得たマイホームという名の誰にも文句を言わせない土地も足元にある。おしっこをしても、うんこをしても大丈夫だと言い張れる効力は、極端な自分にとって意外にも居心地がいい。近代史が生んだシステムに乗っかるのも悪くない。ギリギリ歯を食いしばりながら頑張れば乗りこなせるぐらいのローンは、緊張感と覚悟をもたらしてくれるので、大きな変化を求めるなら悪くない一手だといえる。
標高700mの山奥にある限界集落。ここが私が信じられる社会のサイズ感だ。新参者でしかないが、地域コミュニティのリアルな息吹と習慣に触れながら、大自然の恩恵を受ける。人間の初期化に成功したといえば大袈裟かもしれないが、くそでけぇ思い込みの社会に心を占有されるよりも、圧倒的な自己肯定感に包まれる作用がいまきている。
これは「ある」のカードを揃えた安心感のおかげなのだろうか? 動物的な身体性を取り戻しつつあるからなのだろうか?
途端にしょぼい人間性をどんどん無視していきたくなったし、世の空気が作りあげた正義感に心を揺らされないようになってくるし、もっとニュートラルな私を取り戻すことができている。感情の揺れが少なくなってくるので、油断すれば「つまらねぇ!」と言葉にしてしまいそうなので日々の用事に明け暮れる努力をしている。
数年前から”目の前経済”を大事にしてきたが、今年から来年以降は”目の前DIY”が重要な姿勢になると決めている。ここ2年増やした選択肢は、家づくり、畑づくり、店づくり。この連動の中で会社づくり10年の節目を目指していきたいし、パカーン文脈の新しい概念づくりを耕していくことになるだろうな。人生はつくってなんぼ。誰の指図も受けない。
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