徳谷柿次郎のクラフトインターネット日記

信仰心の弱体化と残酷な推しの概念

昭和以降における日本の信仰心の弱体化と、いわゆる偶像性に対する「推し」という概念の台頭はリンクしてるんじゃないかと思っている。

核家族化によって「家(いえ)」の仕組みが瓦解し、単身世帯の増加で当たり前に仏壇は失われていくし、お寺を支える檀家も減っていく一方だと聞いたことがある。自分だってそうだ。

その良し悪しは一旦置いといて、その浮いた信仰心の余白が「推し」の精神性に繋がっているんじゃないか?という仮説。アイドルを応援する行為は昭和からあるわけで、どれだけ実態と紐づいているかは怪しいところだが、お布施的な推したい欲求の経済効果は計り知れないし、互いに理解しながら熱狂している様子はたくましい。

で、ここから本題。仏教でもキリスト教でも、大事な教えを残した神様はもういないわけじゃないですか。推しの言葉は普遍的で変わりようがない。なぜなら何百年の時間をかけて受け継がれたものだから。信頼の前提条件と期待値がブレない。ここが根幹的な信仰心の土台だとしよう。

一方、現代的な推しの概念は、実態のある人間が偶像性を帯びている。生身の人間にも関わらず、実態以上の存在感を放ち、そのエネルギーを受けて気持ちがたぎる。表現やパフォーマンスの揺れがあることも応援したくなる要素だろう。

だがしかし、一方的な憧れの推したい感情は株価のように上下する。生存している人間だから、ジャッジにさらされる情報は増え続ける。どこかでピークを迎え、いつか落ちる。残酷にも生活から切り離されて、時には非難の言葉へと変わっていく。強い感情を使った反動もまた情動的なエネルギーを孕む。

この構造は、歌手やアイドルといったスケールのでかい推しの存在から、小さな単位での存在……顔と名前を出した活動にも適用される時代となってしまった。

いや、経済の交換関係があるならまだわかる。Youtubeの配信でスパチャをもらってるとか。そうじゃなくとも一方的な期待を押しつけて、思ってたんと違うだけで非難する感情はとても厄介だなと、目の当たりにするたびに頭を抱えてしまう。

同時に、「知らんがな」が通じない時代にもなっていて、その現象に反応するだけで損をするし、その厄介なやぶ蛇の状態をメタ認知して意識するだけでもアナコンダみたいな億劫さに巻きつかれる。

20年以上インターネットをやっている人間で免疫はある方だが、めちゃめちゃに性質が変わってきて「こりゃ〜、いよいよ」になってる。気をつけようがない。どこのだれかの一方的な肩ぶつけなんだから……というまとまりのない仮説を書き殴っておきたい。いつか未来で答え合わせしよう。

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