ジモコロでアジカンのゴッチさんに取材をした。近日公開予定。取材の中で「究極のローカルは個人」という話を受けて、本当にその通りだなと思った。生まれ育った大阪から東京の遍歴は、都市マインドで自然体験と自己愛と旅に乏しい男だった。ルーツをたどれば母方の熊本県・山鹿市、父方の大阪府・能勢町が濃い自然に辿り着くトリガーになっていたのはここ数年で気付いたことだ。
そしてジモコロ全国取材を経て、「自分自身が地方に移住して、実践を積まなければ取材の甲斐がない。同じ体験と目線を少しでも身体に取り込むことが生存戦略的にも必要なはずだ」と思い至って、長野市に5年間、そして標高700mの信濃町の田舎に移り住んで2年が経つ。
念願の生活を手に入れた。土をいじって、日々の四季の変化を鈍感だった五感に喝を入れる。鳥の囀りや虫の音色、月の満ち欠け、山の景色、稲穂の揺れや頭を垂れたころに漂う甘い香り…驚きと感動が鮮度高い状態で訪れる。
人は自然の中の一部でしかない。同時に小さな個人の意識をしっかり持てたのは文字通り腹がすわるんじゃないだろうか。生活の安定と手入れの優先度がグンと跳ね上がり、仕事と遊びがどんどん溶け合って境界線をなくしていく。最小単位である個の在り方が問われる状態は忙しくも心地いい。
日本人の知恵を獲得するためのプロセスと捉えたら、果てがない領域に足を踏み入れた実感と同時に、一人では何もできない共同体の意識を集落(20戸ほど)の集まりで体験することができている。これはこれで究極の個人が拡張したローカルともいえそうだ。
一方で法人格の株式会社Huuuuが社会との大きな接着点となっているのは重要な役割を担っている。取締役4名、社員3名、アルバイト数名。法人税と雇用の重責は戦後の社会システムを維持するためには、どうしても必要ではある。そもそも国家システムは「税」を元手に成り立っているからだ。無限に広がり続けるお金の数値は、年貢の納め時なんて許しちゃくれない。
そのお米ですら気候変動の影響で維持が難しくなっているのは笑い話じゃ済まされないなと、過剰に煽り立てるニュースを見て考えてしまう。やっぱり米は自分で作ったほうがいい。来年は集落の田んぼにチャレンジしたいと思う。米ぬかも稲わらも循環に必要だ。
話が逸れてしまったが、法人を成り立たせるのは骨が折れる。やりたくないことの連続で、性質的には向いていないものの、常に生存戦略と実践の連打を打ち込む姿勢は、経営者として鼻が利いてそれなりになってしまう。
身の丈にあった金の稼ぎ方はできていると思うが、関わるスタッフとの相性が目利きの失敗に終わったら難しくなるだろう。この時代の労務管理は骨が折れる。そうやって経済と人間の面倒くささを清濁合わせ呑むのも大人の嗜みだと信じたい。一度きりの人生で責任を担う修行として悪くないし、着実に経験値が溜まっているのは事実だ。
最近、ゴッチさんの文章を読むたびにくらっている。感情がグラグラに揺れて、表現者が背負う社会の捉え方の芯の太さにグッときてしまうのだ。ライターであろうが、編集者であろうが、やはり書き続ける人の言葉は凛としている。仕事で書くことと自分で書くことの修練は驚くほどに違う。私もクラフトインターネット日記やビジネス月初日記を書き始めたのも、その意思を積み上げたいと思ったからだ。
「自分がこれまでに行ったあらゆる表現に対しての批判を一身に受けることが、表現についての責任だと思う。一回性のものとして、記録と再配布は望んでいないが、何度でも批判されること、現場で説明を求められること、仕事をキャンセルされること、そのすべてを生涯において受け入れたいと思う。信用については、ソーシャルメディアではなく、自分が生身で立つ現場で、人と関わりながら、ひとつひとつ積み上げ直していきたいと思う」(わきまえなさの現在地2024より)
起きてしまったことをすべて受け入れる姿勢に震えた。チワワの震え方じゃ生ぬるいぐらいに。私はここまで現状で思えないし、社会の前に立つことを避けてきたぐらいだ。これも究極の個人を目指した反動なのかもしれないな、とこの文章を読んで考えこんでしまった。アーティストして何万人の観客の前に立ち続けたゴッチさんが見ている世界と稲穂の変化をじっと見続ける私の世界は必ず重なっている。
それでも、私自信は社会課題に対する関心を日々の生活の中から大きく捉えて声高に叫ぶことができない。自然の手入れをすることが社会に繋がることも信じているからだ。手の届く範囲の経済圏で、小さなケツの穴にグッと力を入れる。尻子玉みたいな弱さがこぼれないように、まずは心と身体を引き締めるためにこの土地に住み始めたのかもしれない。
それでも小さな違和感……「このままでいいのか?」は常にある。悩みではない。自分に問い続けているのかもしれない。自然の強い引力に引っ張られ続けると、社会との接着点に対する粘りみたいなものが弱まってしまうのではないか。その繋がりは会社だけで足りるのだろうか。もっともっと何かできるような気もしている。
とらわれず、かたよらず、こだわらず。
これがまぁ、難しい。自分1人では思考が孤立してしまう。そろそろ心の師みたいな存在が必要なんだと思う。いきなりこんな文章を書き始めてみたが、「ここ一年以上ずっと自分のサイズを見定めていたんじゃないか?」……はたと気がついた。どこまでも拡張して複数にとらえてしまう我が脳みそとの付き合い方を学ぶため、いまは立ち止まった最小単位の個人をローカルとして見つめ直していることにしたい。
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