都知事選の結果に対して、あらゆる人があらゆる意見をSNSに吐き出している。いつだってその人が信じる真実は多面的であり、どの角度から眺めるかで印象は大きく変わるものだ。
根本的にマイルドヤンキー現象に代表されるマジョリティ層、高齢者層には意見が届かない。大きな膜のような壁が立ちはだかっている。住む世界が違うといってもいい。
ずっと流れを見ていて思ったことは、かっこいいことだけでも、頭のよいことだけでも、おもしろいことだけでも、社会変化は望めないということ。少し前まではおもしろければなにか突破できる光が見えると信じていた節がある。
しかし、短いおもしろさはYouTube的なものに絡め取られたのだろう。短くてつまらないおもしろさが、人によっては脳を刺激するとてもおもしろいものとして映る。
では、いま流行りの教養が必要なのか。リベラルアーツを学ぶべきなのか。日経新聞なのか。NewsPicksなのか。PIVOTなのか。身近なタメになる情報とチャンネルは無数に増え続けているものの、もっと地中に埋まっている難しさの種はそんな目先の知識ではないと思う。
一言でいえば安心感。そこにいても大丈夫だと思える自信のようなもの。家族、会社、仲間、コミュニティでも言葉はなんだって言えるが、泥臭くてめんどくさいことに向き合っている実感が必要だ。そこに腑に落ちた役割と日々のリアクションを得られたら最高。さらに一定の経済的基盤があり、土日の休息が担保されていて、趣味や旅行に時間を割ける。
成長過程にあるいい会社で働くことや自己表現だけでしっかり充実した時間を過ごして稼いでる状態なんかを例に挙げたい。この環境を得ているのは実際何割いるのだろうか。世の中の3割もいない気がする。この3割と違う7割が仮に存在するのだとしたら、常に3割側たちの連帯による悲鳴は止まらない民主主義の構造が埋もれていそうだ。
私が一貫して社会に対して取り組む姿勢は、泥臭くてめんどくさいことに人生を費やすこと。目先の経済合理性を無視して、これやったら絶対かっこいいだろ!を追求する。小さな会社の代表として、編集者として、いち個人としてあらゆる領域を行き来して、肥沃な泥水を飲み続けたいと思っている。
政治に関心はある。1票も入れる。自分と家族を養う。会社の利益をあげる。雇用を生む。新しい表現に取り組む。集落で暮らす。畑をいじる。犬の散歩をする。草刈りをする。誰かを助ける。裏切られる。騙される。孤独を無慈悲にぶつけられる。醜い感情を目の当たりにする。親から金を無心される。
そんな面倒なことを積極的に負いたいと思っている。手っ取り早くなにかが変わるなんてない。社会も会社も個人も、生死に関わるような本能のトリガーが入るかどうかが重要で、そこに至るまでのプロセスは川の流れのようにしか見えない。
SNSで絶望ばかりを感じてしまうなら距離を置こう。目の前の現実にある、もっと泥臭くてめんどくさい社会活動に実感を抱こう。なんだっていい。都合よく生きるな。
東京だけじゃない、地方の実情も必ず遅れて生活を脅かす。食糧危機やライフラインの維持もSOSはとっくに出ている。人間が人間を捉えることの限界を感じつつ、人間が自然と生きることの仕方のなさを内包しよう。
つかない折り合いをつけるべく、私はそうして生きていきたいと今は考えている。
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