27歳の時にタトゥーを入れた。場所は渋谷。インターネットで調べたら「2万円の特価キャンペーン中」の文字に惹かれたからだ。当時は上京仕立てでお金がまったくなく、住民税も滞納しているし、定期的に携帯が止められていたような経済状況だった。薄い財布はなんて軽いんだろうか……。
どんなタトゥーのデザインにしようかしばらく考えた。2万円の条件は「担当が新人である」、そして「カードサイズ」であること。10年後も20年後も後悔のないようなものを彫らないと意味がない。
当時、二度目の上京を果たした直後であまり人生がうまくいってなかった。そりゃそうだ。ずっと松屋でバイトをしていただけのフリーターで、手に職もなければ自信もない。どこか自分を変えるきっかけを欲していたのだろう。手っ取り早い手段は髪型や髪色を変えて気分転換なのかもしれないが、もう失敗のできない二度目の上京は心境的に追い込まれていた。
「生き様と覚悟を身体に彫って、誰にも文句を言わせない状況にするしかない」
手元にあった唯一の切り札は、25歳ぐらいから名乗っていた「柿次郎」という名前。正確にはライターネームの意味合いでしかなかったものの、ライターを志して上京したのだから、これで生きていく覚悟を示せば、きっと大人はビビるはず。動物王国のムツゴロウさんが「もしワニに噛まれそうになったら、逆に腕を自ら口に突っ込んだ方がいいんです」と謎めいたエピソードをやけに覚えていたのも大きい。ビビらせたい。カマしたい。持ち前の反骨精神が少しズレた方向に芽生えていった。
この名前を考えて無邪気につけた先輩は、当時オモコロの編集長をやっていた。編集部の仲間たちも気づけば「柿次郎」「柿次郎さん」「柿ちゃん」と呼んでいて、ほぼほぼ本名の洋平を超えた名前にもなっていた背景もある。しかも、初対面の相手と名刺交換をしたときのリアクションは「柿次郎…? 本名ですか?」と異常に食いつきが良かった。コミュニケーションの回数は増えるし、名前を覚えてもらいやすい。人の記憶に残りやすいメリットも少しずつ享受していた時期だったと思う。
「名前だけでも覚えて帰ってください」はお笑いの定石なのだから、新人で背水の陣で挑んだ二度目の上京だから「柿次郎」の「柿」をカードサイズにおさめて彫るしかない! 決断すれば即行動。当時親交のあった後輩のイラストレーターに「いきなりだけど、柿って漢字をトライバル柄(民族的模様)でイラストに起こしてくれんかな?」とオーダー。割と暇をしていた後輩は「いいっすよー」と気軽に対応をしてくれて、そのイラストを小さくプリントしてタトゥーショップに駆け込んだ。
暑い夏だった。パンソンワークスの『ONE PIECE』キャラが描かれた黄色いTシャツを着ていたことを覚えている。病院の診察と同じような流れで、上半身裸になってベッドにうつ伏せで横たわる。きっと緊張していただろう。二度と消せないのがタトゥー。身体に生き様を彫り込んで、自分の根本的な人間性に影響を与える決意で臨んでいるのだから。
タトゥーを彫る場所は、日常生活に支障が出ないことを考えて右肩の肩甲骨周りを指定した。和彫りではなく、マシンで彫るタイプのタトゥー。「よろしくおねがいします」と少し震えた声で施術をお願いする。相手の顔は何も覚えていない。若い女性だったと思う。細かい模様でもなく、文字の縁取りを丁寧にやれば新人でもこなせる作業だろう。ここでビビっても格好がつかないため、どれだけ痛かろうが我慢する意気込みだ。
「チリチリチリチリ」
どうしよう。めっちゃ痛い。脂汗が出てくるレベル。過去の体験なので明確な痛みは覚えていないし、人間は忘れることで次に進むことできる生き物だからしょうがない。それでも注射針を刺したときの痛みが2時間続くような感覚だといえばイメージできるだろうか? もちろん痛みには慣れてくるけれど、どうやら薄い皮膚しかない肩甲骨まわりは全身の部位の中でも痛い方らしい。針で皮膚に傷をつけて、そこにインクを入れるのがタトゥー。皮膚感覚よりも、骨に鈍い痛みが届いていたのかもしれない。
「みんなこの痛みに耐えてこそ、生き様と覚悟が宿るんだな…」
他人と比較できない論争のひとつに「痛み」があると思うので、タトゥーの痛がりについても先輩方は不問にしてもらいたい。痛みを口に出すことなく、2時間耐え抜いたのはナメられたくない一心だったと思う。なんせ、こちとら2万円。顔はツルツルの童顔。胸元にはデフォルメされたONE PIECEのキャラが踊ってるようなTシャツを着ていて、どう考えてもタトゥーを入れるタイプには見えなかった。それでも、彫る。生き延びるために。
施術をなんとか乗り越えて、ホッと一息ついた。直後に彫った実感はあまりない。そもそも鏡を介さないと見えない場所に彫っているし、施術直後は皮膚から体液がダダ漏れ中。ぶ厚めのガーゼを貼ってもらって、福沢諭吉2名分を支払ってお店を後にした。
次の予定がオモコロの編集会議だったのだが、その場でタトゥーを彫ったことは言わないように決めていた。イキってる気がするし、そもそも理解されない。スーパー文化的インターネット集団がオモコロで、いきなり覚悟を背負って生き抜くためにあだ名を背中に彫る価値観はなかった。ウケるどころか引かれること請け合い。「え、なんで」の輪唱がその場で生まれてもおかしくないと思っていた。しかし、こちとら体液ダダ漏れ中。会議が一時間ぐらい経ったときに友だちが背中を見て「あれ、柿ちゃん。背中めっちゃ汚れてるで?」と指摘が入ったのだ。もちろん「え、そう!?」と嘘くさく誤魔化した。ここでバレたら意味がない。そもそも自慢げに見せることがタトゥーの覚悟ではない、と当時から考えていた。
とはいっても、ビビらせてカマす必要性はある。「そもそも名前をつけた先輩に報告をしないのは違うのではないか?まずはそこからだ!」と考えた私は、いつものノリで自宅へ遊びに行ってしょーもない家飲みの時間を過ごすことにした。
学芸大学の事故物件に住んでいた先輩の家は、当時住んでいた浦安駅からは死ぬほど遠かったけれども、上京直後の右も左も分からない状態の自分にとっては駆け込み寺のような場所だった。駅から15分ぐらい歩くけれども、東京の知らない土地を移動する時間は、その土地に馴染むための必要儀式として機能している気がしてならない。
深夜1時頃だろうか。話す内容も少しずつ浅くなってきて、一息つくような時間帯。おもむろに「ちょっと報告したいことがあるんですけど」と先輩に告げると、「え、なになに?」と少し不安そうな顔をしていた。そりゃ、そうだろう。上京直後の後輩の「報告」はどちらかというと悪いパターンが多い。
「実はタトゥーをいれたんですよ」
「えー!金ないのにアホちゃうか」
「いや、そうじゃなくて」
「どんなんいれたん?」
「柿次郎の柿をいれました」
「はぁ!?」
その場でTシャツを脱ぐ。訝しげに構えた先輩の顔は、缶チューハイを数本飲んでいたこともあった赤く緩んでいる。ある程度、施術後のタトゥーが落ち着いた状態でもあったので、ひと目で「柿」とわかる。
「えーーーー!!お前めっちゃ最高やん!!」
この世の桃源郷を見つけた旅人くらいの眩しい笑顔で先輩は笑った。ノリでつけたあだ名を背中に彫る後輩。その後輩を目の当たりにして喜びと興奮が止まらない先輩。どっちもどっちなのかもしれない。この瞬間、私は本当の柿次郎になった。
あれから13年近くが経つ。今なお、背中に「柿」のタトゥーが入っている。スーパー銭湯に入るときはシールを貼らないといけないし、タトゥーがOKかどうか怪しい場所でシールを忘れたら、ゴルゴ13のように背中を見せないようコソコソ動いている。生活が不便になったかどうかでいえば、特に何も変わらないと言っていい。気づけば時代の価値観も変化して、タトゥーに対して寛容になっているくらいだ。
この13年間で名乗り続けた「柿次郎」の名前は、じわじわとアイデンティティの奥深くまでじっくりと浸透していっている。覚悟と生き様は自分だけの心に宿っていて、そのエネルギーはきっと仕事にもプライベートにも大きく影響していることは間違いない。
自分が自分をどう認知するか。誰かに名前を呼ばれたとき、そして鏡で自分の顔を見たときぐらいじゃないだろうか。もう本名の洋平で呼ぶ人はほとんどいない。誰もが「柿次郎くん」「柿さん」「柿ちゃん」と13年前から変わらず、好意をもって名前を呼んでくれている。もう、これだけでいいのだろう。自己決定で自分のモノにした名前であれば、人は新しいアイデンティティの容量を作り上げることができると思う。
唯一の不可解な現象は、名付け親である先輩だけがいまだに会うと「洋平」と本名で呼んでくることだ。
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