徳谷柿次郎のクラフトインターネット日記

年末年始の空気が苦手

家族の様式が崩れている人間にとって、強制的な行事が続く年末年始はいつも複雑な気持ちになる。端的に言って年末年始が好きじゃない。

クリスマスにプレゼントを貰うことなく、家族団らんな姿でケーキを囲む時間もなかった。大阪人の矜持なのかわからないが、甘いケーキではなく、ソース強めの「イカ焼き」だったことがすべてを表している。

お正月の空気も居心地が悪い。礼儀としての「あけましておめでとうございます」も口にするのが嫌になる。行事ごとの挨拶が自分の中にインストールされていないのだ。まったく腑に落ちていない。素直にできない自分が恥ずかしいとすら思っている。この苦手意識はなんなんだろうか。小学生の頃から何も変わっちゃいない。ちゃんと振る舞いてぇよ。

多種多様なおせち料理を食べた記憶はなく、白味噌仕立てのお雑煮を無限に食い続けるのみ。なぜかカタクチイワシを甘辛く煮た惣菜品の「田作り」だけがあった。田作りで白飯をかきこんで、サトウの切り餅を突っ込んだ雑煮で仕上げる塩梅だ。正月弁当、へいお待ち。

ステレオタイプな家族の幸せ像をコマーシャルで刷り込まれ続けた側にとって、現実の差分はとにかく苦い。辛いとは思ったことはない。表情筋がやや強張って、下を向く回数が増えるだけだ。なぜこんな苦みを世の中は感じさせるのだろうか。子どもながらに鬱屈としたアンガーを抱えざるをえない。

どれだけのマジョリティ層が存在しているのかも正直わからないが、ジモコロ含め、装飾された情報に溺れることなく、目の前にあるリアルの欠片を埋め込みたいと思っているのは、このあたりの原体験がベースになっているのだろう。今となっては武器となる熱源ともいえる。

それでも「みんながみんながまともな年末年始を過ごせると思わないでほしい」といまだに考えてしまうのはこじれたカルマかもしれない。関わりを増やしたくない。気を使ってしまう性質だからこそ、年末年始の孤独をしっかり味わい切りたいとも願っている。

ひとりで録り溜めたバラエティや格闘技をぼーっと観続けるのがルーティンであり、家族の在りように思いを馳せる。そこから誰かに会いたいと願うことが私なりのスタートダッシュを生む作業なんだなと思う。

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